ホワイトハウスにできた柔道場

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嘉納治五郎が創始した「柔道」は、今や世界中にサッカーに次ぐ900万の競技人口を擁し、世界190余りの国や地域の人々に愛好されている。オリンピックでもお馴染みの『ハジメ』、『マテ』、『イッポン』などの言葉は、世界共通の言葉になっているが、柔道こそがグローバルスタンダード(世界標準)となった日本初の競技とも言える。しかし、嘉納治五郎がいかなる過程で柔道を世界に広めていったのか、その核心や本質とは何だったのかなどについて、あまり知られていない。

本書では、嘉納治五郎という偉大なる人物像に焦点を当て、世界標準の競技となるまでのプロセス、嘉納治五郎自身の核心や本質に迫る。そこには、「グローバル」、「イノベーション」、「国難の克服」といった、今まさに乗り越えるべき日本の課題に対するヒントも隠されている。

柔道の創始者・嘉納治五郎の人物像から、これからの日本のあるべき姿を導き出す。若きリーダー、経営者、そしてアントレプレナー必読の書!!


【はじめに】----------------------------------------------------------------------

 講道館長嘉納治五郎は、非職(職務停止)の期間を除いて23年と4カ月、東京高等師範学校(現筑波大学)校長であった。
 嘉納はまた一時期、文部省普通学務局長を兼任したが、その兼任の理由を説明した中で次のように述べている。

「…善悪正邪を判別する力、正しいことをして満足し、よこしまなることを行って不快を感ずるという心、これらの修養は、終生付きまとうところのものであって…
 専門教育・普通教育いずれも偏重することができぬが、しいていえば、普通教育をもって第一と考うべきであろう。…」

 こう言明した嘉納治五郎は、自ら運営した私塾「嘉納塾」においては、「意志を貫く力」、「困難に耐える力」、とりわけ「労を人に譲らぬ心がけ」すなわち「推譲の精神」を涵養することに最重点を置いていた。
 今や、その嘉納治五郎が創始した「講道館柔道」は、世界中にサッカーに次ぐ900万の競技人口を擁し、世界190余りの国や地域の人々に愛好され、「普遍性を有する世界文化」の一部、あるいは「地球文化」の一端となって、ハジメ、マテ、イッポン、ワザアリ等々の言葉はサッカーのオフサイド、ラクビーのノッコン等と同じく「世界語」となっている。
 一方、国別柔道人口を見ると、フランス50万人、ドイツ30万人、ブラジル25万人、日本20万人であるとされ、多くの日本人にとって、これは意外な数字ではないか。
 講道館柔道五段のロシアのプーチン首相は、柔道着姿で度々テレビにその雄姿を見せるばかりでなく、公式の場でロシア国民に対して「柔道の精神」を説くことも報じられている。
 ところが、日本では柔道人口の上記のような現状を反映してか、嘉納治五郎による「世界的イノベーションとしての講道館柔道」生成の意義を、理解している日本人が未だに極めて少ないのは、驚きであり、残念でもある。
 講道館柔道の発展は、経営方針の優れたスポーツ・ジムが大きくなったとか、指導者の指導よろしきを得た道場が組織を拡大発展させた、というような話とは次元の異なる話であることを、まず指摘せねばならない。
 巡査の初任給が6円であった時代に、学習院平教員としての月給80円では足らず、翻訳料等アルバイト料をも投入して嘉納が立ち上げ運営した、入門料も月謝も要らない無料指導を原則とする「講道館」は、生け花を「華道」と称するような類の存在ではなく、そうでなけれが、嘉納も言うように「練武館」でも「尚武館」でもよかったのである。
 嘉納治五郎があえて「講道館」と名付けて既成の柔術とは全く異なる、世界的普遍性を有する「格闘技の新しいシステム」を開発し、その上、帝国主義、国家主義全盛の世界において時代を超越した「精力善用 自他共栄」という理念をも打ち出し得た根底には、嘉納自身の「国家や社会のありように対する高邁な見識」と、大学出たて、20代前半の若さで自らの所信を実現して見せようとする「並外れて剛毅な気迫」とがあった。
 同時に、「天成の教育家」でもあった嘉納治五郎は、「知育への偏りを排した教育」、すなわち徳育、体育、知育という「三育」のバランス(併進)を理想とする教育家としての強固な信念に基づいて、「体育振興」に一身を捧げ、その結果アジアで初のオリンピック招致にまでこぎ着けたのである。
 フランスの教育家クーベルタン男爵の要請(懇請)に応えて、明治42年、アジア人初の国際オリンピック委員(IOC委員)に就任した嘉納は、まず日本が近代オリンピックに参加すべき国内体制を整えるところから取り掛かり、明治44年、安部磯雄早大教授(後に社会民衆党党首、日本学生野球協会初代会長)らと相談して大日本体育協会(日本体育協会の前身)を創設、自ら初代会長に就任する。
 翌明治45年開催された第5回オリンピック(ストックホルム大会)にわずか2人の選手を引率する選手団長として、オリンピック初参加の先頭に立った嘉納治五郎であった。
 それから26年、自ら創始した「講道館柔道」を引っさげ、アジア人初のIOC委員として、飛行機もない時代に長年にわたって東西縦横に活躍、昭和13年、嘉納はついにアジア初のオリンピック招致という大技を決めて、雄大凛然たる生涯を締めくくった。
 その一方、体育ばかりでなく「教育全般」に目配りを怠らない嘉納治五郎は、昭和の初めに至って、旧制中学校における英語教育縮小(廃止)を求める低劣な世論が高まってきたことに強い危機感を抱き、著名な英文学者らと相談、昭和2年自ら日本英語協会会長に就任している。
 発足したばかりの東京大学文学部第2期生(同期6名)として、嘉納治五郎は新進気鋭のフェノロサ教授(26歳前後)の指導の下に、政治学、理財学(経済学)を専攻して明治14年卒業した。
 ところが、そのフェノロサ教授に一方ならず傾倒した嘉納は、ハーヴァードで専ら哲学を専攻したフェノロサの「哲学」講義を受けるために、改めて明治14年東大文学部哲学科に学士入学を果たし、同時に「道義(倫理)学」、「審美学」の選科に入って明治15年夏卒業、学習院に奉職する。
 そのように嘉納が傾倒し、信奉者の一人となったアーネスト・フランシスコ・フェノロサは、明治10年代前半の日本文化に触れて魂を揺さぶられ、「東洋的精神を欧米に伝えることを以て一生の事業として身を捧げる」ことを決心した。
 日本及び日本人に惚れ込み、日本に強く期待したフェノロサは、「日本人の歴史的使命」として、「東西文明を融合して、より高い文明を創造する」という、言うは易く、実現は極めて困難な命題を高々と掲げたのである。
 しかしながら、自らが深く感銘を受けた日本人の「高尚優美な性質」や「誠実剛毅な精神」が、その後の 殖産興業、富国強兵の波に押し流されて跡形もなくなり、拝金主義、立身出世主義に覆われていく日本社会にフェノロサは嘆息し、落胆した。
 一方、東大文学部におけるフェノロサの薫陶を受けて、天成の資質に磨きがかかった嘉納治五郎は、ジョン・スチュアート・ミルが理想とした多面的で恐れを知らず、自由でしかも合理的なバックボーンを形成し、東大卒業後数年にして、「古流柔術」を基に「講道館柔道という世界的イノベーション(技術革新)」を達成した。
 前述したように今やサッカーに次ぐ900万の競技人口を擁する「講道館柔道」の創始者嘉納は、結果として、「日本発(初)世界標準」の構築者となったのである。
 そういう意味において、嘉納治五郎は恩師フェノロサを超えた、と言うことができよう。
「東西文明を融合し、より高い文明を創造する」という遠大かつ困難な目標を掲げたフェノロサの胸底にあったのは、「西眼(西洋的の眼)を以て西洋の事物を観察し、東洋的の眼を以て東洋の事物を観察し、更に進んで世界的の眼を以て東西の文明を観察し、茲に新しい生命を創造する」という発想であった。
 他方、嘉納治五郎は、明治期日本の世相に対する自らの厳しい批判や、将来の国家的発展とそれに要する人材育成についての鋭い洞察に基づき、より深く掘り下げてこの命題を捉え、次のように揚言した。

「東西文明の精粋を、わが国性に同化し融和し醇化の大作用を遂げて、偉大なる新文明を醸し創作してこれを世界に弘布することはわが国民の天職とするところである」

 単に同化、融和にとどまらず、あえて醇化、釀という言葉を用いたところに、勝海舟伝来の実学主義を信奉する実戦家嘉納治五郎の非凡さがあった。
 世界のスポーツ史(文化史)に永遠に残る業績を挙げた嘉納治五郎の成功の核心は、物事の本質を捉え、そこから展開、転換するに何のためらいもなく既往を振り捨て、新たな方向に超人的な集中力を発揮したことにあった。
 その巨大な足跡をたどり、日本初の世界標準(グローバルスタンダード)構築の意義を再認識することは、今や「国難」とも言うべき状況に立ち至った日本国民にとって、示唆するところ大ではないかと思う。
 同時に、あえて付言したい懸念、危惧をこの際指摘しておきたい。
 競技人口が900万にも達し、「普遍性を有する世界文化」、「地球文化の一端」となったことに起因してか、近頃、創始者嘉納治五郎の「高邁な見識」に基づく「講道館設立の目的」を忘れ、あるいは初めから、そういうことをまるで分かっていないような事象が頻発していることは気がかりである。
 優勝が決まった途端に試合場で拳を突き上げ、泣いたり吼えたり、挙句に跳んだり跳ねたりする態度に象徴される、「底の浅い勝利至上主義」ともいえる行動は、嘉納の最も忌み嫌うところではないか。
 入門料も月謝も要らない「無料指導」の講道館を立ち上げ運営した嘉納の目的は、ただひたすら「立派な人を造る」、「真の国士を養成する」ことにあった。
 対戦する相手に対しての尊敬の念や思いやりに欠け、総じて言えば自己中心的で周囲に対する配慮に欠ける行為は、フェノロサが賞讃した「高尚優美な性質」や、「誠実剛毅な精神」とはかけ離れた「次元の低い動物的な争い」に堕する道に直結している。
 それにつけても思い起こすのは、東京オリンピックで優勝が決まった瞬間に、オランダ人アントン・ヘーシンクが示した見事な武士道(騎士道)精神である。
 自分の優勝に狂喜したオランダ人たちが試合場に駆け上がって祝福しようとするのを、厳しく制止したヘーシンクの態度に、一流の域に到達した武道家(武芸者)の姿を見た、という思いは筆者ばかりではないのではないか。

 2011年5月15日

丸屋 武士


【目次】----------------------------------------------------------------------

第1章 三育(徳育、体育、知育)併進(バランス)の精華-嘉納塾の俊傑、杉村陽太郎

第1節 超一流スポーツ選手、国連事務次長兼政務部長に就任
第2節 限りなく才能を伸ばす中高一貫教育

第2章 嘉納治五郎と勝海舟

Ⅰ 起業して10年、世界的イノベーションの達成
Ⅱ 嘉納家と勝海舟
Ⅲ 勝海舟の真の敵、「門閥制度(封建制度)」と「島国根性」
Ⅳ 近代国家への道、「公(おおやけ)」そして「社会正義」という概念

第3章 「講道館柔道」とセオドア・ルーズベルト大統領、そしてモース、フェノロサ、ビゲロー

Ⅰ 明治37(1904)年3月、ホワイトハウスの椿事
Ⅱ 「柔術のわざ」から帰納した原理としての「偶力」-日本近代化の申し子嘉納治五郎
Ⅲ 嘉納治五郎の恩師フェノロサ教授
Ⅳ 全米に鳴り響いた雄弁家金子堅太郎とハーバード倶楽部
Ⅴ 日本美術界の恩人、「密教」の探求者ビゲローとルーズベルト大統領

第4章 日本初グローバルスタンダードの構築
ー嘉納治五郎によるイノベーションの意義

Ⅰ 投げ技、固め技、当て技のうち、当て技(当身技)の取り扱い
Ⅱ 講道館柔道という「イノベーション(技術革新)」の眼目-嘉納治五郎の創意工夫(創造的破壊)
Ⅲ 近代スポーツ発祥の国イギリスの事情
Ⅳ 戦闘技術の競技化(スポーツ化)-「無用の用」の極致

第5章 明治日本教育界の巨人-「東急」創始者五島慶太を援けた嘉納治五郎

Ⅰ 明治初期、海外留学した人々の奮闘
Ⅱ 五島慶太の岳父、久米民之助
Ⅲ 五島慶太の生い立ちから上京まで
Ⅳ 恩師嘉納治五郎と高等師範学校そして講道館柔道の発展
Ⅴ 恩師嘉納治五郎と日本スポーツ界の発展
Ⅵ 五島慶太の恩人富井政章、加藤高明

第6章 嘉納治五郎、勝海舟、江原素六の絆(きずな)-「島国根性」脱却、麻布中学校創立者江原素六のケース

Ⅰ 開成学園中興の祖、高橋是清
Ⅱ 麻布学園創設者、江原素六の見識
Ⅲ 最下級の幕臣から幕府講武所「砲術世話心得」に栄進
Ⅳ 文明開化の中心地、静岡県沼津
Ⅴ 嘉納治五郎、勝海舟、江原素六を研磨したヤスリ(鑢)
Ⅵ すべては「普通教育(国民教育)」のレベルにあり

【著者略歴】
1941年、満州国大連生まれ。1964年、早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。1966年、早稲田大学大学院経済学研究科修了。1966年~1968年、ニューヨークにおいて「合気道教室」主宰するかたわらニューヨーク大学経営大学院に学ぶ。1977年~1979年、早稲田大学体育局講師(非常勤)。著書に、図書館協会選定図書となった『昭和の開国-歴史の教訓は生きるか』(グロビュー社)がある。








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